濃厚な1日。

神戸の古着屋haberdashery(ハバダッシェリー)のスタッフブログです。



ご無沙汰しております、おとーさん植田です。


今日は久々に、オーナー山本さんと2人でハバダという、非常にレアかつ濃い日でした。


想像してみてください。


ヴィンテージの洋服を着たデカいオッサン2人が、あの店内でニコニコしながらお客様を待ってるわけですよ。


『ゴッド・ファーザー』というより、『テルマエ・ロマエ』的濃度なわけですよ(なんのこっちゃ)。


母の日だったのに、母性の欠片もない二人組。


見ようによっては、「お母さんを休ませて代わりに家事をするおとーさん」みたいな感じに見えなくもなかった1日でした。


まぁ、そんな「濃さ」も許容されちゃう雰囲気が、ハバダッシェリーの店内にはあるわけですが。


さて、古着を着て「濃い」格好してると、服装による自己主張ということを考えざるをえません。


別に古着に限らず、最新のモードスタイルでも、それは言えるでしょう。


「自己主張しないことがモードである」といった言説をしばしば聞きますが、それにしたって、その他の大量生産された既製服との差異化は必要でしょうし、主張がないことをクールと考えるのであれば、わざわざ「自己主張しない」なんて「主張」する必要はないわけです。


ともかく。


個性的な服を着るということは、何かしらの自己表現を伴う行為だと思います。


よく「日本人は自己主張が下手」と言われます。


だからといって、「主張」することが嫌いなわけではないようです。


だって、twitterをはじめとする昨今のソーシャル・ネットワークの隆盛を考えると、むしろ「主張」することに抵抗のない人は多いのではないでしょうか。


ただしそれが「自己主張」かと言われれば、微妙なところではありますけども。


「誰か」の考えをそのまま鵜呑みにしたり、「みんな」と同じ意見に乗っかった発言は、「自己」の主張ではないからです。


そうした主張は、責任感を伴わないので非常にラクである反面、内容はとても薄っぺらい。


反対に、例え誰かの考えであっても、一旦自分の頭で考え、自分の生活や身体レベルまで落としこんだ主張には、責任感と重みが生じます。


「日本人」という括りが誰のことを指すかはともかく、自分で考えることが苦手な人や、自分で考えたつもりになってる人って、案外多いと思いますよ、もちろん僕を含め。


だから、個性的な服を着る、それも意識的に着ることで、自分というものを理解し表現する。


さらにはその先の、自分の人生における振るまいにも、服装は影響を及ぼす。


ちょっと大袈裟ですが、古着、なかでも個性的なデザインのものやヴィンテージには、そんな着こなしの意味合いがあるのではないでしょうか。


「濃い」2人が「濃い」服着てた1日だったので、こんなことを考えてみました。


あ、もちろん僕なんて、山本さんに比べたらまだまだで、山本さんが「どろソース」なら僕は「昆布だし」程度ですけどね(笑)


って、今回も文字だけやのに長っ!


乱文乱筆、すみませんでした。


明日のハバダッシェリーは、マイちゃんとハラちゃんで華やかに営業してますので、遊びに来てくださいね!

ちなみに今日も新しい商品を出したので、ますます店内が充実してますよ〜♪